聲の形で聴覚障害者へのいじめがひどい!内容や炎上した理由も考察

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『聲の形(こえのかたち)』の映画って賛否両論ありますね。

私は『聲の形』は途中まで観てて、観続けるのが正直しんどいなってなってしまいました。

聴覚障害者の女の子と、いじめっ子の健常者の男の子の淡いラブストーリだとおっしゃる方もいらっしゃいますけどね。

捉え方次第で、しんどい映画だと受け止める人、ひどいいじめで見るのもつらいと受け止める人、多少いじめはあったけど最後はハッピーエンドだからいいんじゃないって人もいらっしゃいます。

人それぞれ感じ方は違うんだ、というのがよくわかった映画でした。


今回は、「聲の形」について、聴覚障害者に対してのいじめがひどいことと、映画上映時に炎上した内容についての考察をおこなっていきます。

聲の形で聴覚障害者へのいじめがひどい

聲の形のあらすじを書いておきます。ざっくりとしたあらすじなのでネタバレ無しです。

聴覚の障害によっていじめを受けるようになった少女・硝子と、彼女のいじめの中心人物となったのが原因で周囲に切り捨てられ孤独になっていく少年・将也の2人の触れ合いを中心に展開し、人間の持つ孤独や絶望、純愛や友情などが描かれる。物語は2人の小学校時代における出会いの回想から始まることになる。

wikipediaより

硝子に対するひどいいじめの内容

主人公の石田将也がガキ大将だった小学6年生の時、先天性聴覚障害を持つ転校生の西宮硝子をイジメ抜いた。

序盤のイジメ描写がリアルすぎて、観ているのが辛くなってくる
硝子は耳が聞こえないから、クラスメイトの負担になりたくないから、嫌なことがあってもされてもニコニコとした態度をとっていただけなのに。

なんか切ない気持ちにさせるし、息苦しくなる映画

小学校での硝子に対する将也がおこなったイジメについて考察してみる。

クラスメイト全員が筆談をしなくなる

将也の小学校に聴覚障害を持った少女、硝子が転校してくる。
言葉を話せない硝子はノートを使ってクラスメイトとコミュニケーションを取ろうとするが、
最初は筆談をおこなっていたクラスメイトもだんだん筆談がめんどくさくなる。
そして、筆談ノートに悪口を書いていくクラスメイトも出てきた。
(こんなん悲しすぎます。自分がされたらどーなん?)

将也のちょっかいがイジメへエスカレート

将也が率先して硝子に対して辛くあたるようになっていく。
将也は退屈を極度に嫌うタイプ。退屈しのぎに転校してきた硝子にちょっかいを出す。
そのちょっかいがどんどんエスカレートしていく。
硝子は周囲と摩擦が起こったときには愛想笑いでごまかすことをして生きてきたので、将也に対しても同じようにへらへらと愛想笑いをしていた。
そうやって、愛想笑いでごまかしていたので、最初はいたずら程度だった行為がだんだんイジメのようにエスカレートしてしまった。

クラスメイト全員のイジメへ

将也を中心にエスカレートした嫌がらせは、クラス全体を巻き込んだいじめへと発展する。
小学生の怖いところは自分もイジメの対象になったらヤだなということで、だんだんみんながイジメをしだすということ。
(もちろん、傍観者も多いんだが・・・)

将也は退屈しのぎでやっていたことだが、だんだんエスカレートする。
もうね、これって、社会問題になっている「イジメ」そのものだよね。。。
(本当に見るのが辛い映画です。。。)

硝子の筆談ノートを池に投げ込む

転校してきた硝子の世話役をなりゆき的に任された植野直花。負担が大きく、不満を募らせていた。その後、硝子の筆談ノートに悪口を書き込むなどの陰湿ないじめをおこなうおうになった。
筆談ノートをイジメノートというか悪口ノートになってしまっていた。
(悪口ノートになっていたので、なくなってしまった方がいいのかも・・・でも、硝子がクラスメイトと交流したくて始めた筆談ノートなのに。なんかやるせない。悲しい気持ちになった。)
 
 硝子は自分をいじめていた相手であろうとも、ノートで会話を試みることができたこと、友達を作ろう、向上しようと努めていました。
 そんなノートを石田に取り上げられても、なんとか握手や手話でメッセージを伝えようとしていましたが、筆談ノートが石田によって池に投げ捨てられてしまった。

 この筆談ノートを池に投げられてしまったことで、硝子は全て拒絶されたと受け取ってしまった。この出来事はかなりて致命的なものとなった。
 後に、結弦に「死にたい」と告白したシーンへとつながっていくから。

補聴器を硝子の耳から抜き取ってしまう

高額な補聴器を硝子の耳から抜き取ってしまう。
硝子の母親がなけなしのお金を工面してようやく購入した補聴器。
とっても大事でとても高価なものなのに。
それに、抜き取るだけじゃなくて、壊してしまうというなんとも残酷なことをやって、楽しんでいる将也。
(人間的にどーなん?「硝子、こんなクラスにいることないよ。早く今の環境から逃げな!!」って声を大にして言ってあげたい!)

 小学校でのいじめがエスカレートして硝子の大事な補聴器を抜き取るということに面白みを感じた将也。
 もうどうなってるの?

 なんかね、その将也が補聴器を抜き取るシーンですごく嫌悪感が漂ってしまった。

 コイツ、本当にダメ男だなって。

 聴覚障害者にとって補聴器がどれほど大切なものかわかってない。
 自分の楽しみのことだけで、他人に思いやるということができていない人って最低だな
 
 (本当に見るのが辛い映画です。。。)

●補聴器を硝子の耳から抜き取る時に、硝子の耳にケガまで負わせてしまう。
 補聴器を抜き取る時に、耳に引っ掛けて硝子の耳から血が出たときがある。

 (もーこんなにまでして、なんちゅー奴なんや!(怒))

 こんなイジメを小学生の時にやっていたから、将也は硝子が転校してしまってから、イジメを受ける立場になるんだよ。

 (なんか因果応報なんだな、と妙に感心した。)

「イジメ体験がある人には観てほしくない映画

多少イジメを受けた経験がある人には、この『聲の形』の映画の序盤はかなりしんどいと思う。

どうしてイジメってあるんだろう? 加害者はイジメは面白半分、退屈しのぎって感じかもしれない。

被害者にとってはイジメは本当にしんどくて(いやいやしんどいっていうレベルじゃなく拷問のようなエグさがある)イジメがトラウマになって大人になったときにもそのイジメ体験が事あるたびに思い出されて辛くなってしまうのよ。


近所のとても優しいお兄ちゃんがいるんだけど、その子は高校から不登校になってしまったの。

そう、「イジメ」が原因でね。

賢いお兄ちゃんだし、大検で大学にも行けそうなのに・・・

またイジメにあったらどうしようって考えちゃうらしくて、学校に通えないそう。

今はフリーターでお仕事をしているんだって。


なんかね、このお兄ちゃんの話を聞いた時に、イジメって本当に大人になってからも重くのしかかってくるもんだな、ということ。

お兄ちゃん本人はずっとイジメのトラウマと戦っている感じがするんだとか。

(それってお兄ちゃん本人じゃないからよくわからないけど、私もパワハラを受けたことがあるから、なんとなくの感覚的なものはわかる。)


だから、この『聲の形』の映画を観たときはかなりしんどくなったし、この映画を観たことを後悔した。

過去のイジメ体験のことを乗り越えられた人にとっては、「そんなこともあったよな」と言えてるなら大丈夫かもしsれない。

でも、今の過去のイジメ体験のことを思い出すと、しんどくなったり、パニックになったりするようなことがあるなら、観ない方がいい

辛くしんどくなるから・・・。

今、穏やかに暮らせているなら、わざわざしんどくなること、こころに悲鳴をあげさせるようなことをしなくてもいい。

(私は本当にしんどくなってしまい、結構くたくたになりました。なんで観たんだろう・・・観なきゃよかった。)

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映画上映時に炎上したことについての考察

『聲の形』は映画上映時にあることで炎上しましたよね。

その「あること」とは?

それは、『聲の形』の映画が劇場公開されたけれど、公開された当初は「日本語字幕付きの上映」がなかったこと。

このことで大炎上!!


「日本語字幕付きの上映がない」 ん? どういうことってなりますよね。

映画自体が、耳の不自由な、耳が聞こえない硝子が主人公でもある映画。

それなのに、上映初日の一週間は日本語字幕付きの上演がなかったんです。

聴覚障害者の方も映画を観たいと思いますし、実際に聴覚障害者を主人公にした映画だから、関心も高かったっと思います。

それなのに、日本語字幕付きの上映はなされなかった。。。

なんでなの?って非難が沸き起こり、炎上したんです。


映画の公開は、メディアでも大きく取り上げられていたので、実際に聴覚障害者の方も映画館に観に観に行かれました。

でも、日本語字幕付きの上映はなされていなかったので、不満があがりました。

至極もっともな反応だと思います。


よし、気になる映画だから見に行こうと思い、映画館にいく。

聴覚障害者のことが描かれている映画だから、日本語字幕付きの上映がなされると思っている。

それなのに、上映されたのは字幕なし。

字幕がないと、音を聞くことができないので、映画もよくわからない・・・


そりゃ、不満になりますよ。


それにね、健常者の方からも、日本語字幕付きの映画のほうがいいという意見が出されています。

どう言ったのかよくわからない時に、字幕があると、わかりやすくて、内容の理解に役立つからいい

日本語字幕付きの上映は聴覚障者だけでなく、耳の聞こえる人にとっても役立つ


結局、日本語字幕付きの上映は2週間目以降になされたそうですよ。

上映初日からの対応はできず、2週間目以降に対応されたというわけですね。

2週間目以降に聴覚障害者の方が『聲の形』の映画をご覧になられた場合はちゃんと字幕があるから映画の内容を理解されることができたと思います。



なんで映画は初日から日本語字幕付きで上映されなかったんだろう?と疑問に思いググっていたら、こんなすてきな活動をしているNPO法人をみつけました。

それは、NPOメディア・アクセス・サポートセンター

聴覚障害者の方が、耳の聞こえる人と一緒に映画を観たいという希望を叶えてくださったNPO

映画の感動を、耳が聞こえないこと、聞こえることに関係なく、みんなのものにしようという熱い想いで立ち上げられました。

\あなたと映画を観たい/

ある聴覚障害者の母親の方から、
「字幕が付かなければ私は死ぬまで、この映画を観る事が出来ない」
「母である私が聴覚障害で、耳が聞こえる子どもと一緒に映画が楽しめず、いつも悲しい思いをしている」
という言葉。

この聴覚障害者の母親の方からの言葉によって、NPOメディア・アクセス・サポートセンターが設立されたそうです。


なんかね、こうやって聴覚障害者の方と向き合って取り組まれている組織があるということを知って、ほっこり温かい気持ちになりました。

まとめと考察もどきの感想

『聲の形』は、あまりにリアルなイジメの描写のところで、私自身が辛く悲しくなってしまった。

イジメは本当に根の深い問題なのだということに気持ちが行ってしまい、映画自体を楽しむ余裕はなくなっていました。

イジメの部分で特に違和感なく映画を見ることができた方にとっては、『聲の形』の映画本来のテーマである「大切な誰かに自分の気持を伝えるということ」について考えることができたのではないかと思います。

違和感なく観ることができた人は、映画のラスト、感動的だった。もう一度観たい!と言ってましたし。

(私はイジメの部分で相当しんどくなってしまっていたので、そのしんどさを引きづり、こころが沈んでしまいました。だから、感動した!ということはなく、どよよーんとした感じでした。苦笑)


コミュニケーションって大事だけど、うまく伝えられないともどかしいし、誤解を受けることもあるからむつかしいよね。

『聲の形』は私たちに聴覚障害者の人との関わり方を通じて、聴覚障害者という限定された人ではなく、全人類の人と人とのコミュニケーションの大切さ、重要さを教えてくれようとした作品だと思う。


また、この方のツイートのようなことが日常で横行しているかも、という視点も持ち合わせて生活していきたいです。

本当に『聲の形』の映画はいろいろなことを考えさせてくれる映画ですね。気づきがたくあんある映画ということではいい映画だと言えますね。


私はイジメの描写のところを観ることに耐えられるようになってから、またもう一度観てみようと思います。


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最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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